クリニックにいらっしゃる患者様を拝見していて、最近強く思うことがあります。

それは、「食べる」という行為についてです。

食べるということ、それは生命を維持するために必要不可欠な行為です。

当たり前のことですが、食べることができなければ私たちは生きていけません。

人類にとって長い間、食べるものを必要充分に得ることはそう簡単なことではありませんでした。

氷河期の間、私たちの祖先は主にマンモスを捕まえて食べていました(えらい昔の話で恐縮ですが…)。

当然ながらマンモスを捕まえることは容易ではなく、長い間の飢えに耐え命の危険にさらされながら狩りに成功した暁に、ようやく手に入れたマンモスの肉を食べるということは、我々の祖先にとって、とても特別な行為だっただろうと想像できます。

農耕をはじめるようになると、ようやくある程度安定して食物を得られるようになりました。しかし、天候など様々な要因によって十分な収穫が得られないことも多々あり、たびたび飢饉にさらされました。

我々人間にとって、食べ物はとても貴重なものであり、「天からの恵み」であったのです。

ですから、神事には必ず豊作を願うものですし、食べ物が十分あることに対して、私たちは祭りを行って神に感謝の意を捧げてきたのです。

「食べることができる」ということは、それだけありがたいことなのです。

その感謝の気持ちが、現代人にはとても薄れているように思います。

食べ物があふれ、ちょっとのお金を出せば簡単に食べ物が手に入り(栄養素が欠乏した栄養学的にみれば非常に貧しい食べ物ですが)、すぐにお腹がいっぱいになる時代。

食べ物を手に入れるのに、「苦労」することはほとんどなくなりました。

それは長い間、人類が夢見てきた状態かもしれません。

しかし、それが現実になった現代、「食べる」という行為は、本来の意味を外れて、何か別の方向に行きはじめているような気さえしてきます。

食べ物を大事にしない、食べることに重きを置かない(美食をするというのとはまた別の話です)風潮が、世の中に流れています。

「自分の命が食べ物によって生かされている」という気持ちがなく、ただ義務的に「やっつけ仕事」のように食べたり、または「食べる」ことに振り回され、「食べる」という行為がまるでオバケのように複雑怪奇なものになってしまい、食べることの本来の目的からかけ離れてしまっているのです。

なぜ食べるのか、なぜ食べなければいけないのか。

シンプルでありながら深いこの問いに頭を悩ます前に、まず「食べられることに感謝する」ということを、忘れないで欲しいと思います。

株式会社HYGEIA